真田幸村の墓(一心院)

伝説とともに残る真田幸村の墓

秋田県大館市の中心部にあるお寺「一心院」には、真田幸村のものとされるお墓が残されています。

真田幸村を知っているかたは「なぜ?」と思うかもしれませんが、そこには歴史ロマンともいえる伝説の存在があります。

大館市内にある一心院

常陸国(茨城県)に建立されましたが、佐竹氏の秋田遷封により、慶長16年(1611)に大館に移りました。

戊辰戦争の戦火に会い、焼失してしまいましたが、後に再建され現在に至っています。

起行山一心院(浄土宗)

住所:大館市谷地町96

TEL:0186-42-4175

※いわゆる観光寺ではありませんので、拝観等は事前にお知らせください。

真田幸村の墓は、一心院境内と道路を挟んだ向かい側の墓地にあります。

日本一の武将、真田幸村

真田幸村画像 (資料提供:上田市立博物館)

※画像の無断転用は固くお断りします。

「真田幸村」は安土桃山時代から江戸時代初期の武将で、本名を「真田信繁」といいます。父「真田昌幸」とともに豊臣方として徳川家康を苦しめたことで知られ、今もその戦功が語り継がれる戦国時代随一の武将です。戦国武将ファンの間でもその人気は高く、戦国時代を題材とした漫画やゲームなどでも必ずと言っていいほど登場しています。

「幸村」の名は生前の文献には残されていませんが、一説によると、大坂の陣に先立ち大坂城に入城した後に本人が名乗ったものとされています。

大坂冬の陣での大坂城真田丸での防衛戦での活躍や、道明寺の戦いでの撤退戦での殿軍をつとめるなど数々の武功を上げました。中でも有名なのが、大坂夏の陣の終盤にて、敵である徳川家康の本陣に突撃をかけて、家康を追い詰めたという話です。きわめて絶望的な状況であった大坂夏の陣であっても、最後の最後まで豊臣方として戦い、壮絶な戦死を遂げたと伝えられる忠臣真田幸村を、敵味方問わず日本一の武将として称賛したそうです。

史実では豊臣家が滅亡したとされる大坂夏の陣で戦死したとされていますが、討ち取られたのは影武者で、幸村は生き長らえたとされる説もあります。こういった説の根拠となっているのが、全国各地にあるお墓の存在です。

しかし、その多くが供養墓や供養塔で、幸村の血筋を持つ子孫やゆかりのある人物が建てたものとされたおり、本当に幸村が眠っているかどうかは不明です。

幸村の生存説

1615年に討ち死にしたとされる幸村には、いくつかの生存説があります。

そのうちの一つが、大坂夏の陣で生き延びたのち、主君豊臣秀頼を連れて薩摩(鹿児島県)へ渡り、数年生活したのちに、奥州へ向かい、ここ大館で最期を迎えたというものです。

その生存説では、大坂夏の陣で討ち取られたものとされる真田幸村は、実は影武者であり、本人は主君豊臣秀頼とともに辛くも大坂城を脱出したとされています。

「花のようなる秀頼さまを鬼のようなる真田がつれて退きものいたよ加護島へ」という京童唄が、大坂夏の陣後に流行ったことから、豊臣家のかつての家臣である島津家が治める薩摩の地へ渡ったと伝えられています。

※幸村の薩摩落ちに関しては、NPO法人「縄文の森をつくろう会」の運営するWebサイトにて紹介されています。くわしくはこちらから(リンク先、左側「エピソードを探す」から、さ行「真田幸村(信繁)」をクリック)

しかし、鹿児島で数年間を過ごした幸村は、頼りにしていた島津家が徳川幕府への恭順したのをきっかけに、その地を離れ放浪の旅に出ることになります。

そこで幸村が目指したのは、薩摩のある九州とは真逆の位置にある奥州東北の地でした。幸村は、嫡男である大助と共に奥州(東北)の地を目指すことになります。その理由として、「かつての豊臣家家臣であり関ヶ原の戦い後に処刑されたはずの石田三成が、実は奥州の地へ逃れていたといたため、それを頼ったという説」や「真田幸村の四女である御田姫(なほ)は、秋田藩の大名である佐竹氏の親族に嫁いでいたため、秋田藩の庇護を受けたという説」など複数の説があります。

そして、奥州の地へ向かった真田幸村・大助親子は、巡礼姿に身をやつし東北を巡ります。最後に大館の岩神の地を安住の地として生活するようになります。その頃から、名前を「信濃屋長左衛門」とし、農耕や真田紐の生産にあたり、さらにはお酒を商い生計を立てていたとされます。

その後、真田幸村は1641年に75歳で没し、嫡男である大助もまたこの大館の地で没したと言われています。

一心院内にある伝来の幸村の墓

大館市一心院内にある真田幸村大助父子のお墓

右側は、古来から伝わるお墓ですが、風化していて文字を読むことは出来ません。

左側は、子孫によって昭和28年に建てられたお墓で、「信濃屋長左衛門事真田左衛門佐幸村之墓」と刻まれています。

「幸村」の名は本名ではありませんが、大坂の陣に先立って入城した際に本人が名乗ったものとされる説があり、ここに「幸村」の名が残っているということもその説に繋がると考えられます。

写真:地蔵堂

こちらの地蔵堂では、かつて幸村が大館に来る前に巡礼していた際に背負っていたとされる張り子の地蔵尊が祀られています。

なお、現在あるものは再建されたものであり、本物は戊申の戦火で焼失したとされています。 

夏の陣以降、真田幸村を日本一の武士として称賛する声は、日本全国から上がりました。江戸時代初期の地方では、反徳川、親豊臣という人々は根強く残っていたようで、豊臣の忠臣である真田幸村を支持する声も多く、供養塔を建てたりしています。また、真田十勇士などに代表されるように、多くの小説や伝記も作られ、それら一つ一つが今に伝わる真田幸村像を作り上げています。それだけ真田幸村という武将は、今も昔も全国の人々から人気を得ています。

通説では大坂夏の陣で死亡したとされる真田幸村が、生き延びてここ大館まで来ていたかもしれないという伝説に歴史的ロマンを感じられずにはいられません。